双盤念仏の歴史的背景
双盤念仏は平安時代の流れを汲む仏教行事で元は浄土宗の僧が十夜会に行っていました。
これが他の仏教行事でも行われるようになり 宗派を超えて民間にも広がり、江戸時代に各地で
鉦講や双盤講が組織されました。
双盤念仏は、平安時代に慈覚大師円仁(第3代天台座主)によって、中国五台山から比叡山に
伝えられた引声念仏の系譜を引くものです。
円仁は唐に渡り、約10年間、仏教儀式や声明(しょうみょう)を習い、ついに極楽にあるという八功徳の池の浪の音になぞらえた「引声の阿弥陀経と念仏」の曲節を授けられました。
円仁没後、120年余りを経た寛和2年、15世紀の末に京都東山の真如堂に引声念仏が伝わり、
十日十夜の法要※として行われるようになりました。
それから60年後の室町時代、後土御門天皇の希望により鎌倉光明寺の観誉上人が真如堂の僧侶を率いて、宮中で引声念仏の法要を務めました。
帝は大層感激され、勅許を得て十夜法要が真如堂より鎌倉光明寺に伝わりました。
鎌倉光明寺では引声十夜(双盤十夜)と呼ばれるようになりました。これが関東地方一帯の浄土宗系双盤となったもので、お盆や彼岸、葬式や大法要にも行われていきました。
やがて双盤念仏は僧侶から庶民の宗教生活へととけこんで、双盤を打つ人によって講が組織されていき、江戸時代に各地で鉦講や双盤講が組織されました。
明治時代から大正時代にかけ関東で流行し、拠点の寺堂ごとに流派ができましたが、戦時中の金属供出や戦後の信仰意識の変化により、多くの講が途絶えてしまいました。
今泉延命寺の双盤念仏
今泉延命寺の双盤念仏は400年ほど前の江戸時代に始まったと考えられています。
明治時代の初めに当時の延命寺の講員が奥沢の九品仏浄真寺(世田谷区)に赴き指導を受けたと
記録があります。
今泉延命寺双盤講は、大田区内のみならず増上寺、芝赤羽橋の閻魔堂、川崎大師、喜多見慶元寺、車返本願寺、鎌倉光明寺まで行き双盤念仏を奉納していたようです。
その後、太平洋戦争の空襲によって延命寺一帯が焼失したため、当時の双盤講の鉦や太鼓等が失われたようで、一時双盤講の存続も危ぶまれましたが、昭和39年に地域の人により鉦と太鼓が奉納され、活動が再開し、現在に伝承されています。
(※十日十夜の法要とは、『仏説無量寿経』にある「ここにおいて善を修すること十日十夜すれば、他方諸仏の国土において善を為すこと千歳するに勝れたり。」との記載によるもので、この意味は「この世で十日十夜善行を積めば、極楽浄土で千年間善いことをするのと、同じだけの功徳が得られる」という意味です。)